5月30日に早稲田へ行ってきました。何かまとまりのない文で読みにくいと思いますが、雰囲気だけでもお伝えできればと思い、記憶を頼りに書くことに致します。
梅玉さん、紋付き袴にメガネをつけて登場。
逍遙祭ということで、坪内逍遙先生と歌舞伎のつながりについてのお話からです。
九代目團十郎等が中心に運動していた「演劇改良運動」というものがあった。その後を引き継いで新しい歌舞伎という作品を作っていった。坪内逍遙は新歌舞伎の基礎を作ったといって良い。
「沓時鳥孤城落月」東京での初演は淀君5代目歌右衛門に且元11代目仁左右衛門。
5代目は生涯に淀君役をよく演じて「淀君十種」を作った。
父の淀君に6代目歌右衛門は千姫で共演していた。
父5代目が亡くなってから、義太夫狂言の大役はいっぱい手がけたが、淀君だけはなかなかやらなかった。父のがあまりにも良かった。ということもあるが、新歌舞伎は型があってないようなもので演じるのが難しかったからではないかと思う。
セリフ劇であり、お役の性格描写をリアルに演じるだけではなく、歌舞伎的に演じなければいけない。内面を出すことの難しさが古典とは違う。
S26歌右衛門襲名、S34父の20年祭に淀君を出した。
父にとって卒業論文のようなお役だった。300回ほど演じているが、最後までこれでよいと思わずにいってしまったと思う。
特に「奥殿」は難しいと言っていた。「奥殿」は正気で、淀君のセリフでつくっていくセリフ劇。
梅玉はS43年 秀頼を初役で演じた。その時は父に叱られっぱなしだった。お役に入っていくのはスムーズだったが「ダメだー」の一声。セリフをうまく言えれば良い、それではダメ。全く 芸ができてない。内面の気持を充実させないといけない。
歌舞伎役者は自分の芸として消化させる。八重垣姫ーそこに歌右衛門の芸が動いている。
観客は淀君をー歌右衛門の芸をみている。
父が病気をして、病後7年に淀君をやった。それは近くで見ていて「歌右衛門の芸」を見た。
父は何度も手がけた役でも研究する。袖に書き抜きを持っていき、直前にも目を通す。
ボクは父歌右衛門は上等な人だったと思う。舞台の上だけではなく、生き様が上等だった。
普段の父について、家に帰ったら芸の話しはしない。麻雀好き、ラスベガス好きのただのおじさん。テレビでは絶対歌舞伎は見なかった。
外国に行くのが何より気分転換で好きでした。飛行機が飛び立った瞬間から顔つきが違った。
アメリカでレーガン大統領に会った時、ぬいぐるみをSPに取り上げられた。アメリカの大統領に会うのにも、平気でぬいぐるみを持っていく、そういうことが出来る人。そういう生き様がステキな人でした。
自分は父に認めてもらえるような役者になれるように精進したい。
歌舞伎が世界遺産に選ばれたのを役者の多くはあまり喜んでいない。歌舞伎は骨董品ではない。400年生きている、その時代時代を生きている。
明治以降、逍遙・青果・北条・川口・三島・・・と脚本をかいてくれた作者がいたが、平成はいないように思う。新しい歌舞伎は賛成だが自分にはなかなかできない。
今頻繁に上演されている芝居以外にも、古典の大きな作品は沢山ある。古典の大きな作品、埋もれている作品を残していくことが求められている。財産をもう一回洗い直して光を当てる、それをしたいが興行主との兼ね合いで大変なことである。
具体的に「名残の星月夜」という逍遙の作品があるが、父がこれをやったらよいと言っていたので是非手がけてみたい。
お話はこれで区切り、会場からの質問を受ける。
質問
○代表作を挙げると何ですか。
1道成寺・2隅田川・3八重垣姫・4淀君
○ギャンブルがお好きだったとか、お強かったですか。
ギャンブル好きだけど全くダメ、雰囲気が好きだったんですね。
麻雀も好きだけど下手だっ た。
○画家との交流があったのですか。
父ばかりではなく当時の先輩方は、他の分野の人との交流があった。
前田青邨.、 東山魁夷先生とはとても良い交流があった。
現在、世田谷美術館に揚巻の衣裳がある。年に一回公開される。