第三部、猿之助と七之助の『吉野山』に至ってようやく歌舞伎らしい華やぎが漂い出す。一に演目、二には役者の故であろう。猿之助と七之助という顔合わせは、芸質も持ち味も違うから必ずしも花爛漫の名コンビというわけには行かないが、それぞれの芸のレベルは今月各部での頂上付近、松羽目舞踊が続いた後に竹本や清元が聞こえるとやはりホッとする。(演劇評論家 上村以和於公式サイト | 歌舞伎の評論でお馴染みの上村以和於です。)
歌舞伎座でなく観世能楽堂の舞台で演じるのがもう一つの眼目であり、言うなら能の器に歌舞伎を盛るという、新たなる意匠としての意義と価値に通じる。仕手は吉右衛門ひとり、素面に袴をつけた姿、葵太夫と淳一郎の竹本が地謡の座に座り、伝左衛門ほかの鳴物が囃子方の座に座る。二場とも、仕手は橋掛かりから出て、入る。要するに能の形式に則り、丸本歌舞伎の様式で演じるわけだ。(下座の長唄等は陰から聞こえる。)義経、敦盛等は舞台上には登場しないから、やり取りは竹本と交わす。とまあ、いちいち説明すると煩雑のようだが、現実の能の舞台がそうである如く、極めてシンプルで見事に抑制が効いている。今回は無観客での上演だが、いずれ時を得て、実際に能楽堂で見てみたい。コロナ禍を奇貨として、新たな可能性を切り拓くものと言える。(演劇評論家 上村以和於公式サイト | 歌舞伎の評論でお馴染みの上村以和於です。)
吉右衛門の須磨浦は格調高く、人間の懊悩というものを葵太夫との掛け合いで見事に表現しました。馬もこういう使い方もありと感心しました。コロナ禍で生まれた最高の映像でした。