顔見世というと、思い出すのは子供の頃です。当時、うちは祖父の二代目鴈治郎と父(坂田藤十郎=当時、二代目中村扇雀)が「廓文章(くるわぶんしょう)」など上方のお芝居を上演していましたが、夜の部の最後が多かったですね。子供が起きていられないぐらい遅い時間帯でした。それでもお客さまが残っていてくださった。ありがたかったですね。(【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(61)(6)お客さまと一体の高揚感(2/2ページ) - 産経ニュース)
学業優先というのも母の考えだったと思います。とにかく大学まで出したいと。父は早くにスターになったので、この業界以外にほとんど友人がいなかったのです。本名の「林くん」とか、「宏太郎くん」とか、呼ぶ友人がいない。母は、私たち兄弟に、一般人としての感覚を身につけさせ、この世界以外の友人をたくさんつくらせようとしたんじゃないでしょうか。(【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(62)(7) 学業優先、ピアノにバイトも(1/2ページ) - 産経ニュース)
そんなとき、叱りながらも丁寧に指導してくださったのが三津五郎さん。落ち込んでいるときに慰めてくださったのが(十八代目中村)勘三郎さんでした。おふたりがいなかったらどうなっていたかわからないですね。(【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(62)(8)暗中模索の20代に…(1/2ページ) - 産経ニュース)
ひとり、ぽつーんと置かれたんです、その広い楽屋にね。「ここで何したらええねん」って思っていました。ただ、そのとき初めて、「鴈治郎」という名前を意識したんです。こういう広い楽屋に入る役者なんだと。(【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(62)(9)祖父に見た役者の業(2/2ページ) - 産経ニュース)
外国でも「曽根崎心中」は人気の高い演目です。そのときは、近松座であったことや海外公演ということで、私が徳兵衛役を勤めました。そのときのイギリスの新聞の劇評に、作品をドラマとして評価していただいたんです。「曽根崎心中」というと、お初の芝居と思いがちですが、先入観のない外国の方は徳兵衛の苦悩も含めて作品自体の深さを評価してくださった。(【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(62)(10)徳兵衛役、英公演で覚醒 - 産経ニュース)